B-TAOノートを作りました

0

    B-TAOをどうやって始めたらいいかわからないと、よく言われていた。私も説明が下手なので、良く説明できないもどかしさ。どうしたらいいのかな・・・そこで、「B-TAOサイズのフィールドノート」を作った。まさにコロンブスの卵・・・。

    いや、ノートは最初からあったが、使用の考え方が違った。当初は、「B-TAOサイズのメモ用紙」程度の考え方で、あくまでもカードの補完用と考えていた。実際カードを使ってみると、カードを持ち歩くのが意外に面倒くさい。そして1トピック1枚という考え方では、「どの情報を収録するか」ということに常に悩まされる。いきおい、カードから遠ざかるという悪循環に陥りやすい。そこで考えたのが、記録すべきすべての情報を、一旦ノートに書く、ということ。そんなこと当たり前じゃないか、と言われるかもしれない。そう、だが、もう一つのミソは、「カードと全く同じサイズのノート」ということにある。つまり、ノートをカードシステムの一部として活用するのだ。

    すべての情報は一連の時間の中に連続して発生する。それをまず、そのまま、時間順にノートに記録していく。すると、すべての情報を時系列で記録したデータファイルができる。ここから、蓄積情報として記録すべきデータをピックアップしてカードに起こしていく。あまり間を置くと忘れることが多くなるから、なるべく間をおかずにこの作業をする。そのとき、そこに書かれていることだけではなく、周辺情報で必要なものは調べて補完しておく。できたカードはテーマ順に分類して保管する。

    やってみた結果。
    ノートの内容は、原稿の断片、仕事のうち合わせのメモ、買い物のメモ、ちょっとした思い付き、知人から聞いた料理のレシピなどまったくとりとめのないものになる。が、それらが時系列に並んでいると、その日の光景を思い出しやすい。ほとんどのメモは処理が終わればそれでおしまいの「時系列情報」だ。しかしその中にカードにして保管すべき情報が含まれている。こうなっているとそれを探し出すのは容易だ。



    このノートはかなり早く使い切る。そのため、書き始めに表紙に使用開始の日付を記入し、使い終わったらまた使い終わりの日付を記入する。そして、カードボックスに「時系列情報」としてノートの形でファイルしていく。

    カードシステムの一番の悩みはカードの紛失だが、このやり方だとカードを持ち出さないため、紛失の心配がないのも利点だ。



    新商品・ポリッシングペン

    0
      ご無沙汰です。ブログは一度つっかえちゃうと止まっちゃうもんですね。書こう書こうと思いながら何か月も経っちゃいました。その間に書きたいことがたまりましたから、またしばらく書けると思います。B-TAOの続きもまた書きますが、今回は新しく作った商品、ポリッシングペンの話。

      ポリッシングペン中身

      ジュエリーを手入れするとき、隅っこのほうの磨きたいところが布だけではなかなかうまくいかず、イライラすることがあります。それに、いぶしたものの光った部分を磨くときなど、研磨剤がいぶし部分についていぶしが落ちないかとか、結構気を使います。そんなときにこれがあればだいぶ助かります。ペン先が硬質フエルトチップになっていて、ここにシルバーポリッシュをごく少量つけ、チョコチョコ磨く。隅っこを磨くにはとても便利です。考えてみればこんなもの、あまりにもマイナーすぎるからか、今まで見かけませんでした。

      ペン先

      替えチップも5本付けましたから、結構長く使えると思います。なくすほうが早いかな。

      この商品の企画は1年ほど前からあり、部品も届いていたのですが、そのときまさに事務所の引っ越の大騒ぎ中。結果、長いことほったらかしに。ようやく細かいところも片付いて前進できる気分になり、やっと商品化にこぎつけました。価格は 864円。どうぞよろしく。

      ポリッシングペン全景

      JUGEMテーマ:日々徒然

      ガチャコンのカオス的日常 15 (B-TAOの効用 9)

      0
        人間は練習すれば想像力を向上させられるのだろうか。一般的な常識では、「練習」と「創造」は結びつかない概念だ。しかし、実は本当にありそうなのだ。

        水野学さんという方の「センスは知識からはじまる」という本がある。私の周囲の人は皆読んでいるベストセラーだが、何の知識もなくこの本の題名、「センスは知識からはじまる」を見ると、センスと知識という、一見異なったものがどうして繋がるのか、と思う。しかし、「センスとは知識の集積」であり、「知識というのは紙のようなもので、センスとは絵のようなもの」と言われ、「仕事は価値を創造していくこと」と続けられると、これは、B-TAOの考えと一緒で、これをB-TAO的に言い換えれば、「アイデアは知識の集積」となる。センスとアイデアは見方を変えた同じものである。

        スポーツの練習と同じで、アイデアも練習を重ねれば直ぐに腕が上がるというわけではない。ある方向を決めて情報を集め、思考を重ねて行くと、ある時、ポン、と新しい気付きが生まれる。これを「創発」と言う。何時起こるか、どの方向に起こるかは全く分からない(分からないということが立証されている)が、創発は、必ず起こる。つまり、「何をしたらいいか分からない」、「アイデアが湧かない」というのは才能の問題ではなく、単に作業量が不足している、ということなのだ。

        しかし、ここで安心してはいけない。やっと浮かんだアイデアが役立つものかというと、残念ながらほとんどの場合、前に誰から考えていたものだったりする。しかしそれでも、自分が一ステップ上がったことは確かだ。そうやって考え続け、アイデアを出し続け、もうこれまで、と思った後に浮かぶのが、真のアイデアだったりする。

        そんな辛い思いをして、何になるの?と言われるかも知れない。だが、これこそが楽しいのだ。世に「オタク」と言われる人たち。他人から見れば何故そんなことを、と思われるような分野に熱中している。彼等が人間として本当に幸せな状態なのかもしれない。

        B-TAOはオタクになるための道具、なのかも知れない。そう、考えてみればB-TAOのヘビーユーザー、研究者というのは、究極のオタクに他ならない。

        ガチャコンのカオス的日常 14 (B-TAOの効用 8)

        0
          ほとんどの人にとって、ノートは外から得た知識を忘れないために記録するだけのものだ。特に学校や会社で取るノートはそうだろう。「外部情報」と呼ぶそれらの情報は、もちろん不要というわけではない。が、それらが自らにとって真に重要な情報かと言えば、実はそうではない。「真に重要な情報」は、「自分の内側から出た発想」、「内部情報」である。学校でとるノートにたとえれば、それは授業中に黒板に書かれたものを書き写した部分ではなく、授業に退屈してノートに書いた落書きに当たろうか。それは「自分の内側から浮かび出た想念」を書き留めたものであり、「私」以外、世界中の誰もがまだ知らない情報である。

          もちろんこれはたとえ話で、落書きは単なる落書きに過ぎない。しかし、一たびこういう視点に気付いた時、その重要性が見えてくるだろう。
          ジェームス・クラーク・マクスウェルという、理論物理学者がいる。彼は、電気と磁気を一つの理論にまとめあげた知の巨人だが、彼が死の床で延べた言葉、「私自身と呼ばれているものによって成されたことは、私の中の私自身より大いなる何者かによってなされたような気がする」は、まさに、「意識」である「私」より、はるかに優れたものが、「無意識」として自分の中に存在することを示している。
          自分の身の回りにもこのような例はある。何か困難な問題が生じ、考えても考えてもその解決方法が思いつかなかったとき、諦めて一晩寝たらよい解決方法がふっと思い浮かんだ、などというのもこの例に当たる。

          前にも書いた通り、「意識」と「無意識」の処理能力の差は圧倒的だ。無意識は、意識が処理しきれない量の外界からの情報を整理し、意識が処理できるだけの量を意識に届けてくれている。ただし、その必要情報の抽出が意識の望み通りに行われているという保証はない。意識が何を必要としているかを無意識が知らなければ、本当に必要な情報であっても捨てられている可能性は除去できない。実は、無意識はかなり怠け者なのだということが、研究の結果明らかになっているからだ。錯視という現象を考えてみればわかる。錯視とは、図形が歪んで見えたり違った色で見えたりする現象だが、これは「無意識」がデータを判断するとき、それをそのまま「意識」に伝えようとはせず、過去の経験から類似なものを探し出して報告することから起こる現象だ。つまり、「無意識」は自分の作業量を最小限にするために過去の知識を応用しているのだ。そのことを逆に利用し、積極的にだまそうとするのが錯視だ。「意識」はこの「無意識」の判断から逃れられない。「意識」は「無意識」を通してしか外界と接触できないので、「私」である意識は、知らず知らずのうちに無意識の行う勝手な解釈を、事実と思いこまされているのだ。

          運動選手の行う「練習」は「自分」である無意識に、さまざまな状況に直面した時の正しい対処法を「私」である意識が教え込む行為だ。練習によって自転車に乗れるように、練習を重ねれば重ねるほどさまざまな事態を意識することなく処理できるようになる。試合の時、自分の動きをいちいち意識していては間に合わない。なにせ意識には 0.5秒というハンデがあるから、無意識で動けるようにならなければ、必ず負けてしまうのだ。

          勉強も、「意識」が「無意識」に何かを教え込む練習と言えるだろう。人は「暗記」という勉強、つまり「練習」をよくやる。確かに訓練すれば人の暗記力は飛躍的に高まる。ならば「創造」の分野でも練習は役立てられないだろうか。そう考え、この、無意識に最も効果的に働きかける方法を模索したのが、B-TAOなのである。


          ガチャコンのカオス的日常 13 (B-TAOの効用 7)

          0
            無意識は、流入する情報 1100万ビットのうち、40ビットだけを選んで、「私」である意識に示す。「ビット」という単位がどうであれ、11,000,000 対 40 である。言ってみればレーシングカーと歩行者よりもっとレベルが違う。逆立ちしたって勝負にならない。残りの 10,999,960 ビットの情報は「無意識」のよって処分され(あるいは無意識だけが知り)、私に知らされることはない。何を伝え、何を伝えないかは専ら「無意識」の裁量に任されている。こんな状態で「私」が「自分」のすべてを仕切っていると言えるであろうか。もっとも、例えもっとたくさんの情報を上げろと言ったところで、そもそも私の処理速度がそれしかないのだからどうにもならないのだが。

            この本をもう少し読み進むと、もっと信じがたい記述に行き当たる。それは、「意識は 0.5 秒遅れてやってくる」という記述だ。「私」が行動を決断する 0.5秒前に、脳はすでにその行動を始めている、ということなのだ。信じがたい話だが、科学的に確かめられていて、否定しようがない事実のようだ。
            決める前に行動を始められるはずがない。そしてこれがこの本の主題なのだが、意識は「無意識」によってそう思いこむようにし向けられている、あるいは「意識」がそう思いこんでいる、が、それは大いなる幻想だのだ、と。

            少し考えれば、これには思い当たる節がある。例えば自転車に乗る。誰しも最初から自転車に乗れたわけではない。最初は「こうしよう」と思ってもうまくいかず、転倒したりする。が、練習していく内に自転車を操れるようになり、慣れれば両手離しでも腰だけで思った方向に行けるようになったりする。このとき、どのようにして自転車をコントロールしているかなど、考えもしないだろう。考えれば却ってうまくいかない。電話が鳴る。手を伸ばして受話器を取る。その動作に意識など必要ない。運動の練習は、つまりは「私」がやりたいことを何度も何度も繰り返して、「自分」に教え込む行為といえる。一旦教え込んでしまえば、後は「私」が特に意識しなくても、身体が動く。「私」の乏しい処理能力は、「自分」の助けなしには何も出来ないのだ。

            記憶でも同じことが起きる。街を歩いていて、今まで見たこともなかったある新しい店に気付いたとする。あぁ、こんな店が出来たな、と思う。すると、そのあとで、少し離れたところに同じ店がいくつも目についたりする。それは、新しい店に「気付いた」ことにより、無意識が類似の情報を「ここにもあるよ」と上げるようになってきたのだ。

            B-TAOが着目したのはこの部分だ。もし、「私」が「この情報が必要だ」ということを「自分」に教え込むことが出来れば、「気付き」の頻度は遥かに増えるのではなかろうか。これは誰もが考えもせずにやっていることを、もう少し意識的にやろうとすることだ。つまり運動の練習と同じ、「知力の練習」だ。

            自分の興味のあることには、人は興味を集中させる。しかし、ほとんどに人は、「自分が何に興味があるか」さえ気付いていない。何かをするには、先ず、「自分が何に興味があるか」に気付くことが大切だ。すると、無意識はそれに類似の情報を上げてくれるようになる。「ものを書いて固定する」ことは、正にこの、「知力の訓練」に他ならない。


            ガチャコンのカオス的日常 12 (B-TAOの効用 6)

            0


              前のブログに記した、「私という意識」、「私という存在」、「自己」などの言葉は、何かちょっと引っかかるところがありはしないだろうか。その通りで、人間の「意識とは何か」ということは、盛んに研究されていながらいまだに結論の出ていない問題らしい。意識について書かれている書物を読んでも、何やら非常にややこしく、頭が混乱してくる。しかし、ここは避けては通れないので、それらの書物に書かれていることを読み、私なりに理解したことを述べてみる。もし間違っていたら、素人ということでご容赦いただきたい。

              この話題を進めるには、大雑把に分けて二つの方向がある。一つは、「意識とは何か」と、意識そのものを見つめようとする方向と、もう一つは、自己の中での意識というものの相対的な位置を考える考え方だ。ここではB-TAOの話題の一部として「意識」を話しているので、とりあえず後者の方向に話を進める。

              人は皆、「私(自分の意識)」が「自己(自分自身)」をコントロールしていると思いこんでいる。が、ちょっと深く考えると、これがだいぶ怪しいことに気付く。大体、ここに今、「物理的に生きている」ということ自体、「私」にはコントロールできていない。心臓が脈を打ち、体中に血液が送られ、各種の臓器がそれぞれの役割を果たして人間は生き、私(という意識)が存在している。が、その「身体の働き」のどれもが自動的に命を支えていて、別に意識を必要とはしていない。第一、意識が「私は生きているのだ」ということに気付いたときには、自分はすでにこの世に存在し、「私」は活動してる自分を「発見」するのだ。そのことに「私」の意識は全く何もしていない。それでは、「私」が「自分」を発見する前は、何が自分を支配していたのか。そして今現在、私に知らせることなく生命を維持する様々な活動の調整を行っているのは、誰か。それは意識以外の、意識に上らない、「無意識」と呼ばれる精神領域で行われている。

              「意識は広大な無意識の海に漂う、一枚の木の葉」と表現されることがある。この表現は余りにも誇大だと思われるかもしれないが、どうもそれもそうではないようなのだ。驚くことに、前述の本の記述*には、「人間には各種の感覚器を通して、毎秒1100万ビットもの情報が流れ込んでいる。この内、意識に上るのは、精々40ビットに過ぎない」とある。情報が流れ込んでいるということは、人間にはその情報を受け取り処理する能力がある、ということを意味する。それでは誰がそれを受け取っているのか。それは「無意識」である。そして無意識は(生存のために必要とする様々な調整能力を発揮しながら、それと同時に)それらの情報を選別し、流入する情報の内、たったの40ビットだけを「私」という意識に伝えている、ということなのだ。

              * 「ユーザーイリュージョン」トールノートランダーシュ著 P162




              ガチャコンのカオス的日常 11 (B-TAOの効用 5)

              0
                もし白いカードを一枚渡されて「何か書け」と言われても、何を書いたら良いのか、誰もが戸惑うにちがいない。

                ネットサーフィンの途中でB-TAOを発見し、何か頭の中にインスピレーションがひらめき、「使って見よう」と思われる方は、それより以前に、何か自分の中にそれを必要とするテーマを持っておられることがほとんどだろう。そして、それを明確に意識していたかいなかったかは別として、その「表現方法」に適したメディアを求めておられたに違いない。そのような方は自分のニーズが明確であり、B-TAOが自分の、そのニーズに適合するかどうか、直ぐに判定が可能だろう。

                このような人は、カードに対してすでに明確なイメージを持っておられる。しかし、実はそのような人はほんの少しで、ほとんどの人は「手で文字を書くこと」など考えてもいないのではなかろうか。しかしその中にも、B-TAOに「何かちょっと心惹かれる、気になる」方もおられるであろう。それはきっと、潜在的に自分の中に「表現したい何か」があり、それを表現する方法を探しておられるに違いない。そういう人を対象に、B-TAOについて、書いてみたい。

                人には「何かをしたい」という欲求がある。これは人間が「生きる」ということと同義で、人は自分の欲求を満たしたいがために生きている、とも言える。食欲、性欲、など様々な欲求の内、意識できる最低の欲求は「呼吸したい」かも知れない。人間、ここまで来るともう、生きるが死ぬかの段階にある。

                反対に、様々な欲求の中でもっとも上に位置する欲求が、「何かを表現したい」だろう。ある意味これは非常に高度で贅沢な欲求だ。これ以外の欲求は自らの生存に必要な欲求であるが、「何かを表現したい」という欲求は、自分の物理的な生存には直接的には何の意味もない。生存に必要な欲求を満たすことに汲々としているときには、こんなことは言っていられない。が、それがある程度満たされると、この欲求が意識に上ってくる。しかし同時にそれは、人間が人間として存在する、極めて本源的な欲求に違いない。人間は「知性」を持ち始めた最初の頃から、その欲求を持っていたのだ。どこかの洞窟で発見された、約4万年前のものとされる壁画が、そのことを物語っている。

                ものの本によると、人間が「私」という意識を持ち始めてから、たかだか3000年にしかならないという*。この場合の「意識」とは、自己と他者を分離した「私」という存在に気付いた、という意味だろう。さすれば、人間は「自己」の存在に気付くずっと以前から、「表現」の欲求を持っていたということになる。極めて興味深いことだ。

                人間の社会の今があるのは、それこそ無数の人間が原初的欲求として持ってきた「表現」を蓄積、伝承した結果なのだ。身の周りにあるものすべては誰かが考え、その考えを何らかの形で固定したものに他ならない。

                「想念」は誰の頭にも浮かぶ。しかし、それは自らが固定しない限り、うたかたのように消えていってしまう。その「想念」を固定したものが「表現」である。その想念をとりあえず固定するツールが、絵であり、文字であり、記述であり、物理的には紙であり、カードなのだ。

                *(トール・ノートランダーシュ著「ユーザーイリュージョン」P10)


                ガチャコンのカオス的日常 10 (B-TAOの効用 4)

                0
                  先日(4月30日)、NHKのテレビ番組「所さん!大変ですよ」で、「文房具“爆買い”騒動の謎」と題して、質の高いチョークで知られる日本の文房具メーカー「羽衣文具」の廃業が、あちこちで大量の買いだめ騒動を発生させたことを放送していた。このメーカーのチョークが質が良く、愛用していたノーベル賞学者や、予備校の先生などが将来に備えて、大量に買い込んだのだとのこと。このメーカーは経営者が老齢で後継者がないための廃業だそうな。この時、取材に応じられたアメリカの数学者が、黒板を使って思考するとき、数式記入時にチョークが折れるとそこで意識が中断してしまう、と述べられていた。

                  番組後半は廃業したメーカーの製造機械を韓国の人が購入、同じブランドで世界展開する、というところに至る。所さんはじめ皆さんは異口同音に「日本の技術流出だ」「残念」と述べられていた。
                  しかし、ねぇ・・・と私は思う。
                  本当に良いものでも、その真の価値を実感として知る人は少ない。この番組が放送されるまで、ほとんどの人は羽衣文具という会社も、そのチョークの価値も、知らなかったのではなかろうか。もちろん私も知らなかった。そして、その真の価値を知る人たちは、もう15年分、20年分もの量のチョークを買いだめしたという。ならば、その需要はもうない。あるのは、折れやすい、質の悪いチョークでも「安いから」使っていた需要層だ。その人たちはチョークの質の高さに価値を見出さなかった、あるいは必要としなかった人たちだろう。さすれば韓国の実業家もこれからその質の良さをアピールしながら自らの需要の開拓努力をしなければならない。
                  羽衣文具のチョーク作りのノウハウは日本のメーカーにも公開され、他社でも同じものをつくるという。つまり、これまでの羽衣文具にはなかった、同じ質のチョークを供給するライバルも出来ることになる。チョーク全体の質が向上するのはよいことだ・・・。

                  http://blog.livedoor.jp/ninji/archives/43846598.html

                  書いているときチョークが折れない。それは当然良いことに違いない。しかしその事は、本当に仕事をする人にとって、単に「折れない」ということ以上の、言ってみれば仕事が出来るか出来ないか、というほどの重要な意味がある。このような感覚的なことは証明不能で、数値にも表すことはできないから、とぎすました感性で最先端の仕事をする人以外はほとんど気付くことさえない。

                  これを読んでB-TAOシステムの供給は絶対に絶やしてはならないと思った。B-TAOを購入されている方は(発送先から知る限り)大学の研究室などが多い。が、販売量そのものはごく限られていて、利益第一主義の大企業など一顧だにしない、資本主義的意味では全く無価値な商品だ。しかし、それを愛用されている方々にとっては、やはりなくてはならない大切な「道具」なのだと私は考える。

                  B-TAOは決して絶やしません。後継者もいます。どうぞ安心してご使用ください。

                  JUGEMテーマ:日々徒然


                  ガチャコンのカオス的日常 09 (商人道 2)

                  0
                    「秒速で1億円稼ぐ男」で売り出した某氏が破産に近い状態に、という記事をネットで見た。何らかの形で商売をやっていれば浮沈は世の習い。いずれまた浮かんでこられようからどうという話でもないが、31歳だそうな。それを見て何となく納得。というのは、証明はないが、経験的に言って商売には(自分の年齢による)浮沈があるのだ。

                    歳を取ると分かるのだが、若いときには、異様なほど鋭い感性のきらめきがある。その感性で時流に乗り、大成功を収める人がいる。当然その人は、それが自分の才能だと思う。感性は時と共に衰えるのだが、本人はその事になかなか気付くことが出来ないのだ。
                    人は歳を取る。怖いことに、毎年、次々と新しい若者が新しい感性で、新しい時代に登場してくる。そしてある時、何をやっても成功していた自分が歳を取り、立つべきステージが失われていることに気付かされる・・・。30前後がその、第一の屈折点なのだ。
                    私も、何度も何度もそんな目に遭ってきた。それは本当に怖い。昨日までごく簡単だったことが、今日はすっかりやり方を忘れてしまったように、うまく行かなくなる。

                    最近は、60歳前後のころだ。何とも気付かないうちに、会社の経営が傾いてくる。理由が分からない。最初は世の中の不景気の所為にした。考えつく限りの対策を施したが、うまく行かない。追い詰められて考えてみると、理由は簡単。取引先に担当者が定年で徐々退職し、担当が若返っていたのだ。もちろんそれなりの引き継ぎはある。が、若い人には若い人のネットワークがあり、年上の取引先は鬱陶しい。無意識のうちに敬遠され、忘れ去られていく。

                    感覚が合わなくなる、というのは非常に困難なことで、修正のしようがない。残酷な言い方だが、もうそこには居場所がないのだ。結局、企業というものは、仕事というものは、不断に変化していくものなのだ。居着けば、枯れる。
                    商売の神髄は、儲けて大きくなることではない。自らが時代に合わせて変化しながら、永遠に生き続けていくことなのだ。

                    日々変わりなく続けている仕事、そこには、変えてはいけないものと、変えるべきものがある。それが腑に落ちたとき、初めてまともな「商人(あきんど)」になれるのかも知れない。

                    ガチャコンのカオス的日常 08 (商人道 1)

                    0
                      このところ思うこと。それは、小さな小売店一軒営むのになんとたくさんの知識が必要なんだろうか、ということ。
                      昔は品物を仕入れて並べれば済んだものを、ネットが出現して以来、文は書けなければならない、写真は撮れなければならない、そしてもちろんネットの知識やホームページを作るHTMLの知識、デザインセンスも必要だ。最近はさらにこれに加えて英語でのコミュニケーション力まで問われるようになってきた。
                      店を開けたら開けたで、その後もブログを書いたりフェースブックにアカウントを開いたり、本来の物販以外の作業は増える一方。そのような煩雑な作業を、一体、他の店はどうこなしているのだろうと思うばかり。
                      もちろん、それらの作業をアウトソーシングすることは可能だが、それではわれわれレベルの零細企業は経費の負担増に耐えられそうにない。

                      ネットの進歩で、そうしようと思えば零細企業でも世界中を商圏と考えられる時代だ。もしも「世界に一つ」というような独特の製品を提供できれば、どれほど小さかろうと、どこにいようと商売になる。実際、そういう事例は枚挙にいとまがない。
                      コモディティに関しては徹底的な価格競争に追い込まれ、スケールメリットを武器とした大きな企業が需要を独占しようとする。どんな商店でも、よほどの比較優位がない限り思いもしないところから攻め込まれ、お客を奪われることになる。
                      しかしそのような大企業であっても、安閑としてはいられない。彼らの敵は無数にある超零細のネットショップだ。なぜならば零細故に、商売として成り立たないが故に、そのほとんどの運営者は他に職業を持っている、兼業農家ならぬ兼業商家だ。
                      ネットショップは経費が掛からない。そして定収入が得られるサイドワークがあれば、たとえ売り上げゼロでも痛くもかゆくもないから潰れることはない。売れるものが見つかるまで、じっくりと商売が出来るのだ。そのような店が行き着くであろう先の、こまごまとした商品群は、大企業には手のでない分野だ。それらがたとえ少しでも売り上げを上げてくれば、(なにせ店舗数が大きいから)ちりも積もれば山となるで、その総売上は無視できない金額になる。これが需要全体に影響を与え、徐々に大企業の体力を奪っていくことになるだろう。

                      とにかく、変化が早い。そして、面白い。この時代に、その変化を肌で感じていられることに、感謝。


                      calendar

                      S M T W T F S
                          123
                      45678910
                      11121314151617
                      18192021222324
                      252627282930 
                      << September 2016 >>

                      links

                      ツイッター

                      知的生産の技術

                      B-TAO情報

                      selected entries

                      categories

                      archives

                      recent comment

                      • シャチハタ タイムスタンパー 販売しています
                        ガチャコン
                      • シャチハタ タイムスタンパー 販売しています
                        横山学
                      • 銀製品の保存に便利なシルセーブ
                        ガチャコン
                      • 銀製品の保存に便利なシルセーブ
                        tomo
                      • クロコダイルベルトをご購入のお客様
                        ガチャコン
                      • クロコダイルベルトをご購入のお客様
                      • ポニテコーム作り
                        見習い
                      • 銀のボールペン・ゲルインク型発売
                        ガチャコン
                      • 銀のボールペン・ゲルインク型発売
                        キドパパ
                      • ポニテコーム作り
                        あおい

                      profile

                      search this site.

                      others

                      mobile

                      qrcode

                      powered

                      無料ブログ作成サービス JUGEM